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孤篷庵特別公開

以前にも投稿したが、7年ぶりにようやく再開した特別公開の初日、初回に見物できたので書き記したいと思う。なお、6月13日が最終日なので、予約制であるがご興味のある方はどうぞ。

さて、大徳寺には20余りの塔頭があるが、常時公開の塔頭は少なくて多くの塔頭は特別公開を待たねばならない。令和4年の早い春も黄梅院、興臨院、総見院の特別公開があったので、わざわざ出かけた記憶がある。そして5月24日9時半から孤篷庵の特別公開が始まった。その時刻の30分前に門前に辿り着くとすでに数人が列を作っており、9時20分に入場手続きが始まった時には20名以上の行列となった。5月の平日火曜日にこの人数が多いと考えるか、少ないと思うかは悩ましい問題である。

この特別公開の企画運営は「京都春秋」という会社が手がけていて、大徳寺だけでなく清水寺、高台寺、天龍寺などにも実績がある。ここのウエブサイトは時々見ておくことをお薦めする。

京都春秋のサイト:

https://kyotoshunju.com

まず、空堀にかかった有名な石橋を渡ったすぐの門の下に受付があるので予約した名前を告げて、入場料を支払い、石畳「行の延段」を20mほど歩いて建物に入る。「行の延段」の「行」とは、草書、行書の「行」であり、矩形、多角形、丸石を巧みに組合せてある。ここで忘れていけないのは、門から直線で続く石畳の道に遠近法が使われていることである。左側の植え込みが奥に行くほど低くなっているのである。当然ながら茶室から眺める庭にも遠近法が使われている。建物に入る前に「石橋」「敷石」「遠近法」の三点を抑えておかねばならないのである。

蛇足であるが、この石畳の道が、門の中央から右側に寄っていることに気が付いたら偉いものである。大徳寺塔頭の高桐院などは石畳のシンメトリーが愛でられるのであり、どこの山門、楼門もそれに続く参道は門と中心線を合わせてある。浅学非才、調査不足の私にはその理由が分からなかったが、興味のある方は調べてご教示願いたい。

さて、建物の入口で靴を脱ぎ、手荷物を全部預けて、濡れ縁を進むと左手に別の門があり、そこに「什麽」という文字が書いてある。読み方は「そも」である。日本語の「そもそも」の語源であり、禅僧が禅問答で「どうして」と問いかける言葉だという。この門がある場所が建物の角で、そこを左に折れると、方丈庭園が望める。

庭園の先の塀の位置には、四角く刈り込まれた植え込みが間隔をおいて、手前から遠方に向かって三層に連なっている。この三段の植え込みは波を表し、その先に見えた船岡山を船に見立てている。そして、建設当時は東寺の五重塔が望めたという。

さて、方丈庭園は枯山水であるが白川の白石を使わず、赤砂を用いてあることが特徴である。その理由の説明があったはずだが忘れてしまった。後で調べたら鷹峯あたりの赤砂だそうだ。ただ、この赤土が琵琶湖を示しているということは聞いた記憶がある。

さて、実際には本堂から棟続きの書院と茶室「山雲床」を横断して、本命の茶室「忘筌席(ぼうせん)」に向かったのであるが、茶席に招かれた客は恐らく本堂の縁側を歩き、そこから西側の庭に降りて、飛び石を伝って「忘筌」に向かったと思われている。

その「忘筌」の外側には那智黒の玉石が敷き詰められていて、これが琵琶湖の湖水を表していると説明されるのである。そして通路の終わりを告げるように手手水がある。手手水はこんこんと水が湧き出る仕組みがあって、のちになって金沢兼六園の噴水に技術移転されたとのこと。

さて、入室であるが部屋の外に雪見障子のように、下半分が空間になった障子が上から下がっている。この障子の外には雨戸もなく、軒先にも深さがないので雨に当たる心配がある。それを庭にある程度の高さを持つ樹木を配することで、雨の吹き込み、つまりは障子の紙が濡れて破れることを防いでいるだそうだが、たまには破れることもあるのではないか。

さて、軒高の上半分を遮るように障子を仕込んだのは西日を防ぐためという説明があるが、敢えて西日の明るさを使うために茶室を西向きにして光を取り入れているのではないだろうかと勝手に思ったのである。

なお、「忘筌」や手手水に掘られた「露結」の意味は、有名な話なのでネットで検索して各自確認されたい。なお、「忘筌」は哲学書「荘子」の中に出てくる言葉である。私は大学時代にちゃんと大学から活動費が出る大学公認「中国古典研究会」の幹事長を務めていたので、迂闊なことは書けないのである。なお、部室のあった第一学生会館は2002年に解体されているので、私の青春の足跡は残っていない。

閑話休題。狩野探幽の息子が描いた松竹梅のふすま絵や、砂ずり天井、忘筌の板天井などは、後述のサイトを参照されたい。

参照サイト:「孤篷庵という空間体験を再現し解釈する」(写真多数あります)

https://note.com/masakudamatsu/n/nd2a2d610003e

なお、孤篷庵が大徳寺の塔頭の中で、紫野高校を挟んで飛び抜けて西側に離れている理由を説明員に尋ねたところ、明確な回答があった。大徳寺は豊臣秀吉にまつわる武将の墓や塔頭が多いが、江戸時代に入っても大徳寺に塔頭を建てるのが大名のステータスだった時期があって、ピーク時にはその数は百を超えたそうである。まあ、軽井沢に別荘を持つようなものであろうか。

その後、明治維新によって大名家のスポンサードも外れ、まとまった土地が後に紫野高校になったという説明があった。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

1件のコメント

  1. 最後の説明員への質問は私もなんとなく気になっていたことでよくわかりました。

    紫野高校になったのも今宮神社(一和)から絶妙の距離感で。

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