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大徳寺総見院

大徳寺塔頭のひとつ総見院の特別公開に行って来た。まず塔頭(たっちゅう)の話をしよう。大きな寺の周囲に造られた寺院で、歴代の高僧の墓を守る寺のことを塔頭というが、大徳寺の場合は豊臣から江戸初期にかけて大名が菩提寺として塔頭を立てることが流行した。例を挙げると、大友宗麟の瑞峰院、細川忠興の高桐院、毛利家の黄梅院、前田利家の興臨院などなどであり、織田信長の菩提寺が総見院である。

織田信長が討たれた本能寺は現在は御池通と寺町通、河原町通に囲まれた場所にあるが、当時の場所はそこから15分ほど歩いた四条西洞院にあった。最近まで、そこには本能小学校が建っていたのだが平成四年(1992)に廃校となり、特別養護老人ホームなどに建て替えられている。まさしく諸行無常の典型例である。なお、「本能寺町」という地名が残っており、そこは前述の四条西洞院ではなく、西洞院六角通西入ルである。そして「元本能寺町」も「本能寺町」の南に接して残っている。本能寺は巨大な寺院であったのでだいだいあのあたりというのが正解なのであろう。

現在の本能寺には織田信長公の立派な墓があるが、大徳寺総見院にも信長公の墓がある。本能寺には一緒に討たれた嫡男の織田信忠の墓があるが、森蘭丸や家臣の墓が中心であり、総見院は正室、側室、息女など一族の墓である。と、ここまで書いてきたが信長公の墓は全国各地にあり、京都には阿弥陀寺が有名である。墓は遺骨など本人の一部を祀った場所という認識が普通であるが、そうではない場合もあるようである。なお、ここの墓は焼け落ちた本能寺の灰が納められているようである。

些か脱線するが、「京都、大原、三千院」の門前を通り過ぎた北隣に、後鳥羽天皇と順徳天皇の御陵がある。鎌倉時代に北条氏にはむかった「承久の変」で隠岐に流され、そこで崩御された後鳥羽天皇、その皇子で佐渡に流され崩御された順徳天皇の墓が並んでいるのである。遺骨をここまで運んだという説もあるが、「諸説があります」状態である。つまり、墓は本人との物理的な繋がりがなくても存在するのだ。さらに脱線するが、順徳天皇は百人一首の「ももしきや」の作者である。小学校の時に面白がって覚えた和歌が、そこから半世紀経って彼の人生まで知るようになるとしみじみと感じ入るのである。

閑話休題、総見院は明治の廃仏毀釈で建物さえ取り壊されたか、傾いたかで有名な信長公座像や寺の宝物は、大徳寺に移管されていた時期があり、昭和三年(1928)になって建物が造られた。そして何よりの特徴は、本堂にお釈迦様や阿弥陀像がなく、千利休の師でもある開祖の像が中央にあって左に重要文化財信長公の木造が祀られていることである。

信長公のイメージは西洋甲冑を着たものや、赤マントを羽織ったもの、小袖を着たものなどが頭に浮かぶ。それらの共通点は細面、チョビ髭、筋の通った鼻である。そして、ここの木造も49歳で亡くなった後一年以内に造られたというから往時の面影を充分に反映しているのではないかと思うのである。木造は等身大であり、歳月を経てくすんでいるが当時は再現性が高いと評価されていたようで、観る価値があったなあと感じた。残念ながら撮影禁止なので、ここに木像写真を使った看板の写真を貼っておく。

信長公の木像以外には、外の土壁の一部、井戸、侘助などが往時からのものであるが、建物は頗る新しい。しかしながら、本堂の裏にある昭和の時代の茶室、香雲軒などの建物も見事であった。たまたま材木屋で育ち日本家屋の造りに詳しいご婦人のガイドさんにほぼ一対一で説明を受けたので感慨は一塩であった。具体的に書くと、障子の腰板が網代に組まれていたり、その隣の座敷は格子、そしてその隣は波格子と変化を造っているし、書院(建物ではなく、 床の間の横の出窓)が廊下側に張り出した付書院になっていることなどが挙げられる。(専門用語が多くてすみません。)

さて、寺の裏にある墓所に向かう。写真の朽ちかけた土塀に沿って歩くと正面に信長公の墓があり、左右に正室、令息の墓が並んでいるのである。

但し、側室であるお鍋の方の墓は左上側の写真にはなく、その写真に写っている灯籠の近くに黒くゴロンとした大きな石が置いてあるだけであった。近寄ってよく観ると戒名が刻まれているのが判るが、なんとも言えない気持ちになるのであった。信長は未亡人であった彼女を引き取り、三人の子があるが、墓があるだけ良しと考えるべきなのかも知れない。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

2件のコメント

  1. 寺町今出川上ルの蓮臺山・阿弥陀寺は本能寺の変当時は今出川大宮あったということです。

    20年以上前だったか記憶は曖昧ですが、住職さんが気さくな方で墓所を案内していただいたり本堂に上げて下さり織田信長像などを見せていただいたり、お話を聞かせていただいた記憶があります。

    秀吉が骨を分けてほしいと言ったのを玉誉清玉が拒否したと住職さんは強調されていたような‥

     
    私の場合は門の前で駒札を読んで佇んでいたら声をかけられたのですが、現在は下記のようでないと

    特別公開/ライトアップ

    信長忌【寺町・阿弥陀寺】

    2024年6月1日(土)・2日(日)

    https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=4878

     

    難しいかもしれませんね。

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