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二条城

たなきんです。いつものように長文です。

京都市が二条城の砂利道を舗装する方針を決めたという報道がありました。

https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20190206-OYO1T50028/

以下引用

訪日外国人客らから「歩きにくい」との声が上がっていたためで、130年以上続く砂利敷きを見直す。新年度予算案に調査費900万円を計上する。新年度予算案に調査費900万円を計上する。敷地内の通路約1・8キロは元々土敷きだったが、明治維新後の84年、宮内省(現宮内庁)に管理が移った際、砂利が敷かれたとされる。来場者は2017年度、約244万人と過去最多を更新。約6割が外国人とされ、ベビーカーを使う家族連れや車いす利用者もおり、市の有識者委員会が16年、来場者が快適に観覧できるよう舗装化を提案していた。

以上引用

この報道に対して、京都の風情が失われるなどの声があります。また二条城の砂利が取り払われるなら早晩、御所の砂利も取り除かれて舗装して欲しいという声が出るに違いありません。確かに御所の砂利は歩きづらく、一度だけキャリーバッグを引いて歩いた時は難儀しました。また、砂利道にできた自転車道?が話題になったりもしました。

新聞報道によると二条城の砂利道は歴史が浅く、あまり反対と叫ぶ理由もないように思えます。京都という街は観光客を呼ぶ色々な企画が上手で、さもそこに昔からあったような景色を作ることもあります。ある晩、新幹線の終電を逃して東山の麓の古い旅館に泊めて頂いたのですが、門前の道の坂の石畳が素敵で女将に「ここは昔、勤王や佐幕の志士が下駄を鳴らして闊歩していたのでしょうね。」と問うと、「あれは市電が廃止されて、その敷石を移したんで。」と苦笑された経験があります。

また、読者諸兄がご存知のように「哲学の道」は京都大学教授の西田幾多郎先生が明治時代に思索を重ねがら逍遙したことから名付けられたという説明がありますが、かの大先生が博士号を得たのは1913年で明治時代は終わっています。まあ、博士号を取る前に随分と歩いたかも知れませんが、あれはドイツのハイデルベルグにある「哲学の道」のパクリ(一部不適切な表現があります。)に違いありません。なお、本家の「哲学の道」はゲーテが歩いております。なお、私も現地確認しておりますが、景色は京都のそれとは全く違いました。

さて、砂利道の話に戻ります。筆者の生家は東京23区の西側で東京オリンピック当時は田んぼも畑もありましたが、大きなお屋敷もありました。今でも、角川書店の創業者の角川原義宅、近衛文麿邸などが保存公開されています。また、私の家の近所には半蔵門東條會館の社長宅がありました。この會館は日本一の写真館で、お見合写真を撮れば一発で決まるという話もありましたが、やんごとなきご家族のお写真やら園遊会のお写真も担当し、さらには叙勲の際の記念撮影は大抵ここで撮ることになっている知る人ぞ知る写真館なのであります。そういう邸宅の門を潜り抜け、玄関へと続く道は敷砂利だけかまたは飛び石とセットになっておりました。つまりは、砂利道は権威、栄華、リッチの象徴でもあったのです。

かなり脱線しましたが、果たして京都市の英断?を端緒として外国人観光客の増加に合わせて、日本国中の砂利道は舗装されていくのでしょうか。皇居前広場から二重橋を渡り、天皇皇后両陛下がお出ましになるあの広場も舗装されてしまうのでしょうか。おかげ横丁でうどんを食べたあと、五十鈴川におみ足を清め参拝する伊勢神宮の道まで舗装されてしまうのでしょうか。

ようやく、回答を発見しましたので、下記のサイトを御照覧あれ。

http://www.meijijingu.or.jp/qa/jingu/11.html

 

なお、東條會館については

http://www.tojo.co.jp/photo-studio/

http://www.tojo.co.jp/lp/jokun

蛇足ですが、私はここで撮影したことも、園遊会に招かれたこともなく、叙勲の可能性もありません。

 

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

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