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祇園祭とコレラ

   新型コロナウイルスの感染拡大で世の中とんでもない事になっています・・・
東京の2500人越、大阪の1000人越、神奈川、千葉、埼玉など500人以上の感染者、京都も200人以上と16都道府県で100人以上の感染者。国内感染者数 9148人 死亡者数 192人 【17日12時00分現在】(※クルーズ船・チャーター機を除く)とのこと。私の住んでいる静岡県も50人の感染者が出ていますが、幸い藤枝市にはいません。
  外出自粛、ホテルに二週間隔離状態を余儀なくされている方々に 新型コロナウイルスお見舞い(この言葉が適切かは分かりませんが・・・)申し上げます。

  さて、だらだらとダチョウブン(駄長文)になってしまいますがお許し下さい。
祇園祭の山鉾巡行中止へ 新型コロナ終息見通せず 日本三大祭りとのニュース(京都新聞記事)。
  かつてコレラの流行で延期した事があるそうで『近世祇園祭山鉾巡行史*1』に

明治十二年は七月の祭礼の頃、京中にコレラが流行したので延期 せられ、九月に日程を予定して京都府知事に願い出たがなお「難聴届候事」と却下され、十一月七日神輿迎えを行った。たまたまドイツ皇孫御入洛を機会に山鉾を御所に曳行し上覧に供しようとの議が 出て、各町に七日の山鉾巡行を終ってもそのまゝに解体せずに残し ておき、十三日の後祭の宵山は前祭の山鉾も点燈して囃子をしたので空前の賑わいとなった。

とあります。巻末にある附録の年表には

明治十二年(一八七九)六月よりコレラ流行につき、十一月に延期。後祭南観音山復興。前祭綾傘徒步囃子で加列。十五日全山鉾御所参入
(略)
明治十九年(一八八六)五月よりコレラ病流行のため十一月に延期。
明治二十年(一八八七) コレラ病流行のおそれあり、五月に繰上。
(略)
明治二十八年(一八九五)コレラ病流行のため十二日鉾取崩、十月に延期。

とあります。次のような表が載っています。

 年            度   前   祭  後   祭  理   由
明治十二年(一八七九) 十一月七日 十四日 コレラ病流行のため
明治十九年(一八八六) 十一月二十二日 二十四日 コレラ病流行のため
明治二十年(一八八七) 五月七日 十日 コレラ病流行のおそ
れあり、四日七日*2
役所へ戸長を招集し
京都府より各私祭は
本月中に執行すべし
と論達。
明治二十八年(一八九五) 十月十一日 十八日 コレラ病流行のため

近代日本と公衆衛生  都市社会史の試み*3』に

コレラの日本上陸は、文政五年(一八二二)のこととされているが
(中略)
京都への伝来もこの時すでに見られたが、本格的な流行は安政五年(一八五八)から六年にかけての大流行をまたねばならなかった。この年、京都における死者は「六月より九月晦日まで洛中千八百六十九人、洛外八百三十五人」と記録されている。
(以下略)*4

と江戸時代末から流行していますが、安政五年、六年とも巡行は行われています。前記『近世祇園祭山鉾巡行史』の年表には

安政五年(一八五三)九月上旬疫病流行につき、各山鉾町人形天王様奉斉、諸人の参詣を許し、祇園社神主祈願に来る。

とあります。
  疫病の流行により神泉苑で行った御霊会ごりょうえ「疫神または死者の怨霊を鎮めなだめるために行う祭(広辞苑)」が始まりとされる祇園祭が疫病に負けたという事になりますね。ただ、延期しても中止にはなっていません。応仁の乱で中断後再興してから第二次世界大戦のため昭和十八年(一九四三)から昭和二一年(一九四六)まで*5するまで四年間中止になった他は昭和三十七年(一九六二)阪急地下鉄工事のため、前後祭共巡行中止なっただけです。鶏鉾、菊水鉾、放下鉾、北観音山、南観音山は町内のみ曳行したとのことです。今年、中止になると五十八年ぶり、疫病による中止となると初めてということになるかと思います。

  祇園祭山鉾巡行は七月ではないのかと思っている人が、もしかしたらいるかもしれませんので(失礼)念のため日時について記します。
  祇園祭山鉾巡行は旧暦の六月七日、十四日に行われていました。明治六年(一八七三)に現在の太陽暦が採用され、明治五年十二月三日が明治六年一月一日となりました。


明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)

今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事


新暦の六月七日、十四日は五月十三日、五月二十日となり季節感がずれてしまいます。明治六年の巡行は七月十一日、十八日で前記の『近世祇園祭山鉾巡行史』に

古来の例日太陰暦六月を太陽暦七月としたのは時候を顧慮したものである。現行の七月十七日及び二十四日となっているのは、最初に七月十七日及び二十四日に行われた明治十年のそれぞれの日が丁度太陰暦六月七日、十四日に当たった先例に拠ったものである。明治十八年より十七日を二十一日に、二十四日を二十八日に改めたのは、その前年のその前年の明治十七年が雨天続きであったので、後記のように延引のやむなきに立ち至ったから、以後も降雨をおそれてのことである。こうして現在の七月十七日の例日が定まった次第である。
尤も例外的に変更された事は一再でなかった。

とあります。

 年  度  前  祭  後  祭
明治六年 七月 十一日 十八日
明治七年、八年、九年 七月  七日 十四日
明治十年より 七月 十七日 二十四日
明治十八年より 七月二十一日 二十八日
明治二十一年より 七月 十七日 二十四日

*1
『改訂 近世祇園祭山鉾巡行史』
祇園祭山鉾連合会 発行
昭和四十九年六月二十日 発効<
昭和四十三年発行の改訂版
*2
四日七日は四月七日の誤植と思われます。
京都府発行の「京都府百年の年表 9 芸能(昭和466年3月31日発行)」の明20(1887)年に
5・7、10 祇園祭礼繰り上げ執行。(徳島県にコレラ発生、予防上夏祭を全て繰り上げまたは繰り下げ布達)。     日出 4・8、30、5・6
とあります。日出は日出新聞(典拠文献)。
因みに明21(1888)年にはコレラに関しての記載ありませんでした。                
*3
小林 丈広 著
2001年2月20日発行
発行所  雄山閣出版
*4
京都の医師新宮涼閣しんぐうりょうかくの『コレラ記事』などに拠るもの
*5
昭和二十二年(一九四七)に長刀鉾、月鉾のみ二十四日まで建てられ、長刀鉾が四条寺町までの往復曳行という形での巡行復活

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