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伊藤若冲

たなきんです。遅れましたが、あけましておめでとうございます。今年も駄文にお付き合いを願います。

祇園祭の山鉾巡行や五山送り火などの中継番組でお馴染みのKBS京都放送は、京都が地元の地方テレビ局である。関西の読売放送、関西テレビなどのキイ局とは違って経営状態も視聴率も捗々しくない。そして東京にも「テレビ東京」というキイ局であるが弱小のテレビ局がある。やはり日本テレビ、TBS、フジテレビなどの資本力のある局とは違って視聴率は低いが、アイデア勝負で、なかなか面白い番組が出てくることもある。東京のキイ局の番組の視聴率が低迷すると「振り向けばテレビ東京」という言葉があるくらいである。

そのテレビ東京の看板番組のひとつに「開運!なんでも鑑定団」がある。恐らく、観たことのない日本人は極めて少ないと思うので、その内容については触れないが、当初は骨董品に値段をつけるなどとはまことに下品な番組であるという印象があったが、それが単なる金額目当ての番組ではなく、素人収集家の自慢の鼻の柱をへし折ったり、意外な結果に依頼人が涙する人生模様が描かれていて人気が高い。

そして、出てきた古美術品にいきなり値段がつくのではなく、鑑定依頼人の人物や家族の困った状況だけでなく、その作品の歴史的背景、作品の評価方法などを教えてくれる教養番組の側面もある。そして、私がこの番組で初めて知った芸術家の名前も数々あるが、「伊藤若冲」がその白眉である。

伊藤若冲の人気に火がついたのは2000年に没後200年を記念して京都国立博物館で開催された「若冲展」がきっかけであると言われているが、実はテレビ東京のあの番組が人気爆発の下地を作っていたのではないかと思っているのである。また脱線するが、あの番組に出てくる「若冲」の殆どが偽物というのも愉快である。

さて、伊藤若冲は錦市場の青物問屋の息子として生を受けたことはよく知られている。そのためか、彼の絵には蕪、大根、蓮根、茄子、南瓜、さらには蜜柑や桃まで出てきており、さらにその微細な表現に驚かされる。彼の日々の暮らしの近くにそれらの野菜がなければ、あれだけ細かな表現ができなかったのではないだろうか。また、鶏の描写も細かいので、近所に鶏を飼っている家か販売している店屋があったに違いない。

問屋を経営しながら絵を描くということはなかなか難しく、40歳の時に家督を弟へ譲って絵に専念したというのが通例になっていたが、平成の時代になって「京都錦小路青物市場記録」という史料が発見されて、絵の道楽に傾く八百屋の旦那というイメージが変わってきた。この資料は1771年から74年までの錦市場の記録で、そこで若冲は市場の存続に関わる難題に対して相当に活躍していたらしい。彼は1716年に生まれて、1780年に没したのでこの記録は彼が錦市場へ晩年まで関わりを持っていた証拠となるのである。

この史料は滋賀大学の経営学部の宇佐美教授が1999年に論文で発表したのであるが、その史料にある「若冲」が有名な画家とは気が付かず、後の2008年に美術史の研究者の間で認識されることで騒ぎとなった。その難題というのは、なかなか興味深い話である。今でも錦市場には魚を扱う店が多く八百屋の類はあまり見かけないが、当時は八百屋もあったのである。そして奉行所から「八百屋禁止令」が出た。これは五条の問屋市場からの訴えと冥加金の上納が効いたらしい。先の大戦の防火のための疎開で五条の通りは昔の姿を留めないが、戦前は古着屋街などもあって殷賑を極めていたらしい。

さて、若冲は奉行所に冥加金を納め八百屋営業は再開されるが、五条問屋市場は若冲のほぼ倍額の冥加金を納めて再び「野菜営業禁止令」が出る。当時はコンプライアンスなんてのはなかったので、お役所にそれなりの金銭を納めるとマツリゴトの方向も変わるらしい。桐の箱の饅頭の下に大判小判が敷き詰められていて「お主も悪やのう」というのは往年のテレビ番組「水戸黄門」の見過ぎであり、若冲の冥加金は敵味方の金額が記録されていて、説明責任を果たしているのである。

お金の積み上げ合戦では泥試合になるので、若冲は壬生村など近隣の百姓の支援を得て、彼らに奉行所へ訴えを出させて、とうとう「禁止令」を廃止に持ち込んだ。なおこの時、若冲側も冥加金を納めていて、その額は五条問屋が最後に出したものより若干多めになっている。この時期は弟に家督を譲って15年経過、年齢も55歳くらいである。絵に集中する気持ちもあるが、生家の存亡に関わる事態に対して東奔西走した彼の心は如何ばかりであったろうか。

さて、夕方や早朝に錦市場の店舗が下ろしたシャッターには若冲の絵がペイントされているのをご覧になった方もおられると思う。彼の後半の人生には興味深い陰影があったことを覚えていて欲しいのである。

本当は若冲の墓が二つあることや、晩年は義理の妹と暮らしたことなどを書こうとしたが尻切れトンボになってしまった。ご笑読いただきたい。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

2件のコメント

  1. 文藝春秋から 出版されていた 季刊『くりま』と言う Mookの 1981年夏号 総特集『食・京都の誘惑』の記事で見た『野菜涅槃図』(当時は『果蔬涅槃図』と呼ばれて無かった?)が 若冲を初めて見たんじゃないかと思います。

    1月に 昔見た NHK作成のドキュメンタリー『若冲を発掘したアメリカ人』の再放送があると聞いたので 番組表調べたら 8Kでの放送でした。1/25 (月) 16:00 ~ 17:00 放送ですので 8Kが 視聴できる方は ぜひ!良い番組ですよ。

    錦市場の騒動の時は 親交のあった相国寺の大典顕常の力添えを受けたような 話を聞いた事があります。この一件のため この期間の作品は 少ないのだとか。
     

  2. さすが、ソネマンさん、よくご存知ですね。

    日本放送協会の番組、折角の御助言ですがこちらは8K電波を受信できず我慢します。

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