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維新の墓

たなきんです。いつものように長文です。

前回の「京都の御陵」に続き、またもやお墓の話で恐縮ですが、お盆にちなんでお許しください。

さて、京都はイニシエの都でありましたので、応仁の乱をはじめとして本能寺の変や幾多の戦乱騒動があり、明治維新では蛤御門の変、鳥羽伏見の戦いなどがございました。京都御所の西側の烏丸通に面したあの矢弾の跡が残る門の正式名称は「新在家御門」であることや、「蛤御門」の名称は御所が火事になっていつもは開かない門が開けられたことから、火に炙られて開く蛤の名前をつけたことは北山の皆様ならご存知のことと思います。「蛤御門」の俗称そのものは諸説あるものの長州藩と薩摩藩の戦さがあった1864年からという説を信用すると、命名されてからまだ150年程度のことになり、京都の歴史の中では意外に若いと言えます。

ところで、日本放送協会の日曜夜の大河ドラマは、戦国武将の波乱万丈譚を主題としておりましたが、だんだんとタネ切れになり、さらに女性を主人公にする傾向になっております。それでも1962年に始まった第一回目の「花の生涯」は桜田門外でテロに遭った井伊直弼の生涯を題材としていますが、その愛人である村山たかの動きも大きく取り上げられております。無論、たかは実在の人物で天誅組に逮捕された後は、髪を下ろし左京区一乗寺にある金福寺で生涯を終えたと伝えられております。

私は、金福寺を参拝して初めてこの女性のことを知り、祇園の芸妓であったことや、逮捕されて死刑になるところが女性ということで減免され、どういうわけか代わりに息子がさらし首になったことなどに興味を覚え、河原町のブックオフで「花の生涯」を捜したのですが、作者の舟橋聖一の本も少なくて驚きました。

女性の一生を主題にしたNHKの大河ドラマで、京都にちなんだものと言えば綾瀬はるか主演の「八重の桜」が筆頭に挙がるでしょう。会津若松の産ですが、のちに同志社を起こした新島襄の奥様になりました。「ならぬものはならぬ。」というセリフは皆さんのご記憶にあると思います。

そのドラマでは、会津の殿様である松平容保公へ将軍から京都警護の命が下ります。すでに徳川幕府の威信は地に落ち、京都守護に行くのは「薪を背負って火を救おうとするようなもの」と皆に意見されるも「義」を優先して京都に自ら向かうのでありました。(ドラマではと書きましたが史実です。)

その松平公が陣を張ったのが、金戒光明寺であります。ご存知のように岡崎の東北にある岡の上にあり、石垣が組まれてお城のイメージがあります。また西門には「奥羽會津藩松平肥後守様 京都守護職本陣 舊関」という大きな看板がありますが、あれはNHKの大河ドラマに合わせて作られたもので、騙されてはいけません。江戸時代に表札というものはなかったのです。

そろそろ本論に入りますので、しばらくご辛抱ください。

この松平公は芹沢鴨や近藤勇の新選組を公認したことで知られていますが、自分の部下も京都に連れてきています。そして京都の赴任は28歳1862年12月、1864年の蛤御門の変を経て、長州征伐長官となり、鳥羽伏見の戦いを経て、1867年1月に徳川慶喜と一緒に江戸に移り、その後会津若松の城は落ちます。つまり、京都赴任期間は約4年間という計算になります。

そんな計算をしながら金戒光明寺の堂宇や本堂内の仏像を見物して、足の向くまま本堂の奥、東北の方角にある「会津藩殉難者墓所」に足を踏み入れると、その墓石の数に驚かされます。その数は352柱。4年間という上洛期間で計算するとほぼ4日に1人亡くなっていることになります。寺以外にも宿舎があり、地元からの補充もあったとしても会津藩の犠牲者比率は少なくなかったと偲ばれます。

それでも立派な墓地があり、きちんと手入れがされていることから倒れた藩士の霊も安らかに眠っていることだなあと感じたのであります。

ここで話は御陵に転じます。東福寺の東南に「仲恭天皇 九條陵」と「崇徳天皇皇后聖子月輪南陵」が二つ隣り合っていて鬱蒼とした森の中にありますが、九條陵の西側に二條の墓石が並ぶ墓地があり、荒れ放題になっています。背の高さほどの太い野草が茂っていて暮石に近寄ることもできません。ただ、暮石のデザインから推し量るに昭和のお墓のようですが、顕彰碑があって鳥羽伏見の戦いで倒れた長州藩士の墓ということが判ります。そして「明治維新百年記念植樹 岸信介」と記された石柱もありました。安倍晋三総理大臣のお祖父様です。

多分、明治百年を契機に墓地を移動したか墓石を新調して、お参りしたのでしょうが、管理関係があやふやで半世紀も経つと夏草の茂れるままになってしまったのでしょう。

私の参拝した御陵は全て宮内庁が管理していて、掃き清められていましたが、維新に命を賭して貢献した方の墓がこれではいけません。

蛇足ですが、蛤御門の変で亡くなった長州藩士の墓は、相国寺境内の西の墓所にあります。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

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