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思想逍遥

たなきんです。いつものように長文です。今回は京都本の紹介です。

観光客数が二年連続で減少したとはいえ、平成29年の年間宿泊客数は1557万人(うち外国人353万人)、平成12年のそれが942万人(うち外国人40万人)であったことと比べると依然として京都は強力な魅力のある観光地であることは間違いない。なるほど、大きな書店には京都本コーナーがあり、時には京都の本がベストセラーになることもある。例えば2015年に出た井上章一著の「京都嫌い」(朝日新書)は、そのヒットに続く井上氏自身による関連本が数冊も出たことはそのヒットが大きかったということができる。井上氏は京都府嵯峨野の育ちであるが、御土居の外側の出なので住所を告げると中京区杉本家のリアル京都人からは軽く蔑視されたという一文があって衝撃を得た。戦後の昭和の話である。これほど左様に歴史やグルメも交えながら京都人の「イケズ」を活写していて面白かった。

さてこの拙文の題名は「思想逍遥」の四文字であるが、私が取り上げる本の本当の題は「京都思想逍遥」といって、2019年2月発行の厚めの新書である。著者は東京生まれだが東大で東洋哲学を学び、京大大学院の現役の教授である。また、1959年生まれなので恐らく私の拙文の読者とほぼ同年代の方が多いと思う。そしてこの年代だから本の始めの部分に廬山寺と紫式部、鴨沂高校と沢田研二、府立病院とクールセダーズ、移転前の立命館大学(広小路キャンパス)と中原中也、高野悦子を散りばめて読者をくすぐるのである。

この本の章立ては、京都の土地を逍遥しながら各地に縁のある思想(宗教、哲学、文学)を思い起こして論じている。しかし、ほっつき歩くのは鴨川の両岸付近(主に東岸から東山山麓)だけで、北限が京都大学、南は深草あたりまでである。三島の金閣寺も触れられているが、金閣寺を執筆した「柊家」を起点にしていて都の西北にある鹿苑寺の案内は避けている。また川端康成の「古都」も当然ながら北山杉が出てきそうだが北山という土地には触れることはない。著者はこのゾーンを「延暦寺から伏見大社」とも「花折断層の線」とも説明している。

さて、京都の条里制を鳥瞰してみると、現在の京都が御所も含めて東寄りになっているのはご存知の通りである。この京都の重心が東寄りになった理由について、筆者は物資の流通を挙げている。大阪から川を上ってくるルート、そして北國からの鯖街道である。物資の移動は、人の移動、情報の移動でもある。何はともあれ、いくつかの御所は京都の西側に移動したことはあるが、文化思想の中心は東山であったのである。

そして論は桓武天皇の遷都論に至る。遣唐使を廃止し国風文化が盛んになった時代であるのに、わざわざ唐国の都の長安に似せて条里制を採用したのは何故なのかを述べて、最後には流布されている「風水による遷都」論に至る。ご存知ない方に遷都の風水的条件を「北に丘陵ありて玄武棲む」「西に大道ありて白虎棲む」「南に平野ありて朱雀棲む」「東に清流ありて青龍棲む」と成し、北の船岡山、西の山陽道、南の小椋池(昭和に干拓して今はない)、東を賀茂川に当てはめている。因みにこの本には記述がないが、風水では北から南に抜ける気の流れを遮ってはならぬという掟があり、巨大な京都駅ビルの真ん中に気を通す大きな穴をワザと作っているという説があるので触れておこう。

ここで些か水を差すようだが、江戸中期から遡って平安時代に至るまで四神相応京都遷都論を語った文書は発見されていない。この風水説で一番古い文書は最近(江戸末期か明治か私の記憶は定かでないが)のものである。その後にその本を孫引き、コピーペーストして現在の京都風水遷都論として人口に膾炙しているのである。まあ、都市伝説の一つとして捉えるのがよろしいと思う。(西暦708年に元明天皇が発せられた続日本書紀の遷都平城詔には「四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀巫並びに従ひぬ」とあるが、この詔は平城京について出されたもので、この後に長岡京(784年)に移る時、平安京に移る時の詔には四神相応について触れられていないようである。以前に書いた銀閣寺の銀箔説にしろ、曰く因縁故事来歴、因果応報、盛者必衰などもっともらしい説は我々観光客には嬉しいものである。)

さて、話はいきなり京都女子大付属の小中高の学校に飛ぶ。東山七条(「ひんがしやまひっちょう」という発音が正しいらしい)の智積院の北側の坂道を登って豊国廟に向かって歩いて行くと、特に下校時などは坂を降りてくる女子学生に圧倒されてしまう。この坂を「女坂」とも呼ぶらしい。そしてその高校に通っていたのが藤純子(今の富司純子)で、「昭和残俠伝 唐獅子仁義」の話題が出てくる。実は、藤純子の父親がこの映画のプロデューサーだった縁で監督マキノ雅弘に認められ女優になったのは有名な話だが、この話も同時代の高橋和巳と絡めて描かれているところがにくいのである。

https://www.youtube.com/watch?v=dUytpv_8tE8

終わりの方には東九条や柳原銀行資料館という被差別の地域の話が出てくる。私の京都徘徊も半世紀近くになってくると、京都駅の南側がどうも殺風景であることや焼肉屋が多いこと、そしてその理由、その歴史なども耳学問として頭に入ってくる。著者はソウル大学に留学していたこともあり、短期間ではあるがこの界隈に住んでいた経験もあり描写も精緻である。

この本には万葉集から古事記、古今、、新古今、源氏、枕草子、善の研究、三島由紀夫や大江健三郎まで網羅しているので、それらについて一応の知識を持っていた方がよろしいが、判らない部分は読み飛ばしても、京都のみやび論と交通マナーの対比や、裏京都の話など読みどころ満載である。取っ付きにくい文章なので本屋で試し読みしてから購入するか、図書館で借りて読むと良いと思う。

 

引用:観光客数については

https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000240/240130/kyosa29saishu.pdf

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

5件のコメント

  1. 盛夏と言っても天候不順、夕立も全国にひっきりなしに起こっていますね。実は学者のまた聞きですが、夕立は、体言止めで、ゆうだつ という動詞があったそうです。新古今の旅の部にある”かきくもりゆうだつ波の荒ければ浮きたる船ぞしず心なき“は、紫式部が琵琶湖の近江今津辺りで読んだ歌ですが確かに実用しています。SNS などで日本語が雑に扱われているのに、危惧しています。

  2. 「夕立」、勉強になりました。

    言語の乱れというか変化は止むを得ないところがあります。例えば「全然、〜ない。」という法則は今や過去のもので「ぜんぜん、大丈夫っす。」になっていますし、発音も「です」の発音は「DESU」ではなく殆どの人が「DES」と「U」の発音をしておりません。

    大昔には「ph」の発音があったそうで、「はひふへほ」は「パピプペポ」と発音していたとか。その時代で読んだ万葉集はレコードも発売されたのですが、今はYoutubeで一部を確認できます。(基本的に関西弁なのはなるほどですけど)

    https://www.youtube.com/watch?v=ez0A-bphKn4&list=PLa5rTQhkxCyqrRgP6ykjfzhALhNy_c9wF

    こんなのもあります。

    https://www.youtube.com/watch?v=m3jB3LRn1xU

    なにはともあれ、自分が使っていた言葉が変わってしまうのは悲しいことであります。

  3. 行水の捨てどころなし虫の声    江戸時代の俳人鬼貫の句で有名だが、ぎょうずいということが分かるだろうか? 既に死語になっているのではないかと思われる。関西の漫才では、先輩の間で雑談などで、幼少の頃、オヤジ兄弟で、家の前の、路上で盥をおいてふざけあったとか、たまには話題になることもあるが。;たらい;もわかるかな。たらいの端を両手で持ち上げて、ザーと流す光景を思うだけでも、微笑ましい街なかの庶民の生活が。オヤジは、代わりの湯を運ぶし、子供たちはkya-kya-騒いでいる、はだかんぼう。地べたはたたきで、虫はいようもない。

     

  4. 9月に入って,まだまだ30℃ごえの洛中、今日橋本コーヒーで”ごき”の一部の人達と、久し振りに会いました。みんな60越えですが元気そうでした。介護や子供たちの結婚の話など年相応の話でした。こちらも80歳半ばで、よれよれの手前で、多少若い衆に会えて、嬉しい限りです。オリンピックには、行きませんが、首都圏でも会いたいものです。

  5. oyajiの以前の投稿を、みようと思って探しても見当たらず、コメントの所に紛れ込んだり行方不明になったりしています。管理者におねがいです。oyajiの窓とか、項目として分離してもらえませんですか?

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