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宇治拾遺

たなきんです。いつもより長文です。

さて、私が昭和51年発行の平凡社刊「ポケット地図京都」の索引に掲載されている寺社仏閣・名所旧跡の全数踏破をライフワークにしていることはこのサイトの読者であれば耳タコであろう。そして、今回は地図の59ページ「宇治」で、残余の物件をめでたく巡ることができたことを報告する。

宇治といえば、平等院。平成の大修繕も終わり、加えて鳳凰堂に隣接して「鳳翔館」という博物館を建設し、そこでは阿弥陀如来の背後に飾られている迦陵頻伽を間近に拝見でき、人の死ぬときに生前の功徳により、天上界では「上の上」から「下の下」までの九通りの扱いがあり、「上品」とか「下品」という言葉がここから来たことを知る。また、宇治川の対岸には日本最古の神社と言われる宇治上神社、そして宇治神社があり、流れを遡ると紅葉の名所で興聖寺という曹洞宗最古の寺もある。また、源氏物語の舞台となったことから源氏物語博物館などというものもある。また、少し離れるが三室戸寺も春のツツジ、初夏の紫陽花が見事である。と、読者諸兄におかれましては宇治で巡る場所は以上で概ね網羅していると感じておられると愚考する。

しかしある日、かの地図の59ページを眺めると宇治川の北岸、近鉄宇治駅と三室戸駅の間に「兎道稚郎皇子墓」といういささか大型の古墳が未踏として残っているではないか。この御陵は「うじのわきいらつこ」という応神天皇の皇太子、仁徳天皇の異母弟の墓といわれている。この方は、諸説あるものの、のちに仁徳天皇となられる兄に皇位を継承させるために入水自殺したとも伝えられている。また、「宇治」の地名は「兎道(うじ)」に由来しているとの説もある。

さて、チャンスは意外なところからやって来る。友人が紅葉の京都を案内してほしい。10時12分京都駅着の「のぞみ」に乗ってくるという。一方、私は新横浜駅発6時ちょうどの始発「ひかり」に乗れば京都は7時59分に到着する。つまり、京都と宇治を往復して未踏の御陵を2時間で参拝する計画ができたのである。この御陵は京阪宇治線の三室戸が最寄り駅で、京都駅には京阪電車は乗り入れていないが、J R奈良線と京阪宇治線はかなり平行して走っていることは京都通ならご存知だろう。そこで、新幹線で到着した京都駅でJ R奈良線に乗り換え、最適な駅で京阪電車に乗り換えるということになる。

すでに、JTBの時刻表は近くの本屋まで出かけて買い求めた。また、グーグルマップでJ Rと京阪の乗り換え距離が最短であるのは京都駅の隣の東福寺駅であることが分かった。しかし、東福寺駅は京阪本線の駅で、この本線に乗り続けると大阪の淀屋橋まで持っていかれる。そうならないためには中書島駅で宇治線に乗り換えが必要だが、それでは大回りとなる。そこで、京阪宇治線に絞り込むと京阪とJ Rの黄檗駅がかなり近いことが分かった。とはいえ、線路は隣接・平行しているものの、京阪の駅の南端がJ Rの駅の北端に接している位置関係なので、間を繋ぐ乗り換え通路は望むべくもない。

そして、両路線の黄檗駅に決めようとしたところ、京都駅始発8時09分のJ Rは快速電車なので黄檗駅は通過してしまうことに気がついた。09分の次の各駅停車は15分発でしかも全部の駅に停車するので時間がかかる。そこで、J R六地蔵駅で下車して京阪の六地蔵駅まで約300mの道を走ることに決めた。たかがお寺巡りの道楽の果てに朝の京都を走る男の姿を想像してほしい。走る決心もついて一段落したので、再度地図の索引を見直すと未踏のお寺がまだあった。しかも二つもあった。一つは、宇治橋のたもと、通園の裏にある「橋寺放生院」で、もう一つはかの御陵の宇治川を挟んだ反対側にある「聖澄寺」である。

こうなると計画はゼロベースで全面見直しである。京都発8時09分の快速で宇治駅まで出て、「聖澄寺」へお参りして、宇治川の土手を上流に向かって移動。宇治橋を渡り、今度は下流方向に向かう。そしてその後、宇治橋に戻りその近くの「橋寺放生院」を参拝するということになった。J R宇治駅を使う決心をすると往復とも快速電車が使えるという利点もあった。宇治駅には8時31分に到着し、9時25分の快速で京都に向けて戻らねばならない。そしてこのルートをグーグルマップで確認すると徒歩で57分、4.5kmと出た。マップの歩行時間は長めに出ることは知っているが、お寺や御陵へはタッチ・アンド・ゴーでお参りする時間はあるのか。

さて、新幹線には便利な切符があって21日前までに予約すると種々の制限はあるものの、新横浜から京都のグリーン車が普通車指定席の料金とほぼ同じとなる早割スマートEXというサービスがある。そこで二時間足らずではあるが、生まれて初めてのグリーン車でリクライニング・シートを目一杯倒して、脚も伸ばし、グリーン・アテンダントを呼んで飲料水を頼んだり贅沢な時間を過ごして京都入りを果たしたのである。

J R奈良線は新幹線のコンコースに隣接しており、改札を抜けると数歩で電車に乗れるという立地条件である。早割特別切符は京都駅までしか発行されていないので宇治駅までは乗越となるので、駅を出る時に精算すれば良いと考えて改札機に切符を入れたらはねられた。駅員さんにワケを話すと、一度新幹線の改札から外に出て、改めて在来線の切符を買って乗るようにと説明された。客の利便性を大きく損なう体制だ。投書してやるぞと腹が立ったが、新幹線はJ R東海、在来線はJ R西日本の経営なので理屈が分かった。私をそのまま奈良線に乗せるとどこの駅から乗ったという証拠がないのだ。例え京都駅着の切符を持っていたとしても何の役にも立たない。

仕方なく、551の豚まんの店を左正面に眺めながら新幹線の改札を出て、右に折れて跨線橋の階段を上ると黒山の人だかりが見えた。東海道線が不通だか遅延していて、券売機の前から人が群れている。そして、アナウンスでは京都タワー側の改札を使えというお達しである。改札口の前、改札の内側、ホームに降りる階段まで人人人人である。これでは8時09分の電車に乗り遅れる。精密に立てた計画が水泡に帰すと考えた私はコンテンジェンシー・プランを発動した。幸いにも改札口は閉じていなかったのでSuikaカードで改札を抜け、人ごみの中に突入したのである。「すいません。9分発の奈良線に乗りたいのです。」と大声を出しながら右手を前に出して群衆を掻き分け、掻き分け前進したのであります。途中、一回だけ誰かに足を蹴られましたが、日本人の堕落だなどと憤慨する暇もなく、一に前進、二に前進、「すいません」を繰り返しながらようやく目的の快速電車に発車寸前で乗り込むことができたのです。

松本清張の「点と線」、鮎川哲也の「ペトロフ事件」、西村京太郎の「特急さくら殺人事件」など、時刻表を使った推理小説やテレビドラマは枚挙に遑がないほどあるが、犯人は列車の遅延リスクを考えていなかったのだろうか。殺人前の不通や遅延なら犯罪を犯さなければ問題ないが、殺人後のアリバイ作りで計画していた列車が定時で来なかったら万事窮すである。

先ずは、誓澄寺である。私が見落としていただけあって、目立った曰く因縁故事来歴はなく、お仏像も年に一回しかご開帳しないようである。文化財登録も2件あるが宇治市登録なので、唸るところは見つからない。どうして平凡社の編集者がかのポケット地図に載せたのか疑問である。まあ、40年以上も試す眇めつページを繰っていると疑問やアラは出てくるものなのである。

「兎道稚郎皇子」の御陵は、数々の御陵を拝んできた私に言わせると中規模で、三方を堀で囲まれているあまり高さのない土塁で上に樹木が鬱蒼と茂っている。御陵は明治の御世に宮内省によって整備改良されているので外観について云々するのはあまり意味がないが、大きさだけはそれなりに意味があると見て良い。ただし、神話に近い時代のそれは超大型や大型であり、時代が経るに従い小型になる傾向がある。当時の権威、権力の大小にも影響があるとも言える。

最後が、橋寺放生院である。場所は宇治橋北のお茶屋「通園」の裏である。日本ではその昔に生きた鳥や魚を逃がす(放生する)と、その命を救ったということで功徳を積む、わかりやすくいうと天国へ行くポイントが貯まると言われ、寺社の門前で鳥を売る、大きな橋のたもとで魚を売るというビジネスがあった。今でもタイのバンコクの寺には鳥籠を積み重ねで放鳥する参拝客を待つ露店がある。

お寺は、城のような高い石垣を積んだ小高い場所にあり、恐らく昔は宇治川が洪水で増水して上がってくる水位に合わせて寺の場所を決めたのであろうと思った。日本国内を旅行していると、川の近くの家は古い家ほど地面をかさ上げして建築していることに気がつくのだ。昔は水が出たのである。京都市も西側にあまり人が住まなかったのは土地が低い上に川の氾濫が度々あったためと言われている。

さて。右顧左眄・紆余曲折したが計画通りに拝観と見物を重ね、無事に宇治駅に戻り09時25分の快速電車に乗って、45分には京都駅に戻ることができたのである。
こうして宇治した未踏の寺社仏閣旧跡御陵をい集めることに成功したのである。これが私の宇治拾遺物語である。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

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