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全数踏破への道 1

令和二年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお付き合い願います。

さて、筆者紹介欄に「京都の寺社仏閣の全数踏破を目指して」と書いてありますように、昨年も「宇治拾遺」の題名で落穂拾いのような参拝拝観を報告しております。今回は、その「全数」とは何かと、どこまで進んでいるのか、残っているのはどんな場所なのかを書いてみますので、お付き合い下さい。

ご存知のように、「全数」とは「平凡社版ポケット地図 京都」昭和50年6月25日初版、昭和51年2月21日第3刷の索引に記載の「寺院・神社・公園・陵・百貨店・ホテル」335件を指標としております。その内訳は以前にも書きましたが、寺院190、神社56、墳墓45、公園18、遺跡17、庭園5、博物館4となっております。

京都見物に来て、天皇陵(墳墓)を巡ろうという人は殆どいないであろうし、私もそんな考えはありませんでしたが、寺社仏閣は殆ど巡り尽くしてしまったので、最近は未踏の場所として残っている天皇陵を巡る機会が増えております。これの一部については以前に「京都の御陵」という題名で書きましたので、ご笑覧ください。

ところで、地図の発行された昭和50年は令和2年から遡ること44年前なので、移転や廃止廃業という施設もあります。例えば、梅小路貨物駅と梅小路蒸気機関車館はご存知のように2016年に京都鉄道博物館に生まれ変わり、その東側には京都水族館ができました。鉄道のついでに書くのであれば、京都駅は平成9年に伊勢丹百貨店を併設して生まれ変わりました。そういえば丸物百貨店も京都近鉄百貨店になったと思ったら、その後にヨドバシカメラになってしまいました。

移転といえば、市バスの源光庵前停留所から坂を少し下ったところにあった鷹峯の安泰寺は兵庫県に移転してしまい、跡地には小洒落た建売住宅が並んでいます。安泰寺を見物(拝観)しようとあの下り坂を降りてきて、地図にある筈のお寺がなくなっていることに気がついた時の驚きは今でも脳裏に残っております。

また、ホテルフジタもリッツ・カールトンに替わってしまいました。ついでに書けば、京都の景観を台無しすると騒がれた「京都ホテル」も「京都ホテルオークラ」になり、都ホテルも「ウエスティン都ホテル京都」という山鳥の尾の長々しき名前になりました。「新・都ホテル」も「都ホテル 京都八条」へ名前が変わっていることに今更ながら気が付きました。何しろあの帝国ホテルが京都にやってくる時代なのですから驚くこともありません。

それはさておき、苔寺の近くにある池大雅美術館へ向かったのは数年前でしょうか。場所は苔寺のバス停の真向かいで、その角を北上すれば鈴虫寺という絶好の立地なのですが、休館という表示が出ていてその後に全ての所蔵品は平成25年に三条高倉の京都文化博物館へ寄贈ということになりました。移転先にも展示面積の限りがあるでしょうから、以前のように多くの作品を鑑賞することはできないでしょう。思うに、お寺巡りのついでに美術館という観光客は少なかったのでありましょう。

移転や廃業など寂しい話が続きましたが、そろそろ本題の未踏の地について述べたいと思います。まずは、大原の里には、「順徳天皇陵」と「建礼門院陵」が課題として残っております。順徳天皇陵は京都大原三千院の前を通って突き当たりの勝林院の手前東側にあります。Google mapによると名称は「後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵」とあり、後鳥羽天皇は承久の乱で隠岐に流され現地で崩御されており、また息子の順徳天皇も佐渡に流され現地で崩御されているので、隠岐や佐渡からとても遠いこの地の御陵には何が祀られているのか私にはわかりません。

なお、順徳天皇は小倉百人一首の最後に出てくる「ももしきや古き軒端をしのぶにもなほ余りある昔なりけり」の作者でもあります。子供の頃に「ももしき」が面白くて真っ先に覚えた一首でありますが、佐渡に流され崩御まで21年間も過ごされたということを知ると感慨深いものがございます。

なお、京都通の読者の皆様を相手に、建礼門院の説明は不要と思いますが、平成12年に寂光院が放火され重要文化財の御本尊も焼損し、その後平成17年に再建されましたが、ヒナにはそぐわないきらびやかなお堂を目にしてそそくさと折り返したことを思い出しました。建礼門院の御陵は寂光院の裏手にあり、あそこで引き返さなければよかったと悔やむのであります。ちなみに御陵は寂光院の境内にあったのですが、明治の御代に移ってから寺の裏手に移動されています。御陵も移転するのであります。

さて未踏20件のうち、最初の2件の紹介で紙幅が尽きました。振り返ればプレリュードの部分に力を入れ過ぎたのかも知れません。見事な尻切れトンボになりましたが、いつものことだとご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

1件のコメント

  1. 本文では佐渡に流され現地で亡くなった順徳天皇について語りましたが、たまたま司馬遼太郎の佐渡島の紀行文の中にこの人物の話が出て参りましたので備忘として書いておきます。
    彼は二十五歳で佐渡に流され、以後二十二年間をそこで過ごし亡くなった。その死因は自殺である。都に帰れるという望みが絶たれて、絶食して死に至ったという。
    話は壮絶であるが、都から連れて来た女性との間に一女をなし、現地の女性との間にも娘があった。彼の死はその娘が満で十歳の時だという。今度は娘の気持ちがやるせなくなって来たのであります。現地に二宮という地名が残っているが、神社の格付けとは全く関係がなく、その娘(第二皇女)を二宮と呼び、その住居跡が二宮神社になっているとのこと。

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