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古都

たなきんです。

まずは新型コロナウイルスの感染拡大で、生命や健康、ご商売や生活に影響を受けている皆様にご同情を申し上げます。

ノーベル賞作家である川端康成が小説「古都」を書いたのは1961年である。この小説はノーベル賞の受賞にかなり寄与したと言われているが、日本では「北国」や「伊豆の踊子」ほどには知られていない。

美しい双子の姉妹は訳あって、一人は何不自由なく育てられた室町の呉服問屋の娘、もう一人は北山杉の丸太加工の作業員。二人とも捨て子であったことを知っており、互いに相手を探し、祇園祭の夜に邂逅する。それも四条通の御旅所で七度参りの最中である。そこに複数の男性が絡み、姉の代わりに妹を愛してしまう男も出てくる。そして時代祭に室町の呉服問屋で二人は再会して、、、という粗筋であるが、中京区と北山という京都の対照的な土地と、祇園祭と時代祭を絡めた小説は京都好きなら一読の価値がある。

何故なら、この小説には失われていく古都の景観や風情が描かれているからである。後に東山魁夷に語ったところによれば、「京都の今を描くのは(当時の)今しかない」ということである。後に川端康成が書いた文章には、「山が見えない、山が見えない」と同じ文章を繰り返す表現がある。つまりは、京都の町家の二階建て住宅の中に東西両本願寺などの黒々とした堂宇が散在する京都の風景が、真四角の表情のないコンクリートのカタマリに侵されていくことを、憂慮しているのである。

思い返すに京都は戦災も受けず、少なくとも禁門の変以来の街並みを維持してきており、上洛する日本人の心のふるさと、たましいの拠り所でもあったのである。そして京都の風景、京都の祭や京都の言葉、生活を描写することで景観だけでなく、変わりゆく国のカタチへのレクイエムが「古都」ではなかったのか。

話が飛ぶが、イタリアのフィレンツェでは、高台のミケランジェロ広場から市内を見下す眺めは絶景である。大聖堂の丸みを帯びた塔や幾つかの教会の尖塔の他にはオレンジ色の瓦と淡い色か白の壁の建物ばかりで、真四角で無粋な建物は一つも見当たらない。これがルネッサンスの遺跡かと思っていると、1860年代に有名な建築家によってなる都市計画で現在の姿になったという。また、先の大戦での米軍の空襲で破壊された都市を綿密に再構築したとも言われている。

確かに1982年から始まった「古都税」の騒ぎは、御池通北側の京都ホテル(現在は京都ホテルオークラ)の建設が一つの焦点であった。南禅寺の山門に上がると鴨川を挟んだ真正面にこのホテルが景観を遮る堤防のように見えるし、その後のマンション建築ブームで京町家は随分と失われた。さらに土地の高騰で京都の中央部には億ションしかたたなくなると、代わりにインバウンド需要を狙ったホテルが林立する。そして高さ20メートルと定めた景観条例も、31メートルの特製措置を連発している。

真偽のほどは確かではないが、三年坂に立ち並ぶ店のかなりの部分が京都資本ではなくなっていると聴いたのは随分前のことであり、市内に建つ億ションの持ち主は京都人ではなく主に東京の富裕層であるとも聞く。安室奈美恵が移り住んだのはそのうちの一つであろう。そしてホテルも一泊が二桁万円の高級なホテルが建ち始めた。二条城の目の前に2020年に開業する「ホテル・ザ・ミツイ・キョウト」はその典型であろう。

さて、私がこのサイトに寄せる駄文のテーマの一つが、諸行無常であることはお気付きであろう。1970年代の後半から京都に通い始めて、その当時の京都の街や山の風景が大昔からあるものだと勝手に誤解していたのであるが、喧騒を嫌って引越ししてしまった寺(安泰寺)や逆に新設のお堂(青龍殿)、何もないのにプロモーションを巧みにして有名になった寺(鈴虫寺)、火事で焼けて全く姿形が変わってしまった寺(寂光院)などの有為転変を知り、四条通や河原町通りが明治になって拡幅されたなどということは少し考えてみれば自明のことであるが、御池通や堀川通の道幅が妙に広いのは何故なのか、いつ頃に何のために拡幅したのか。逆に四条通の車道が狭くなったのは何故なのか。疑問を持ったら調べてみると実に興味深いのである。

以下蛇足ながら

「古都」はamazonの電子書籍Kindleでも読むことができ、Preime Videoでは岩下志麻主演のものと山口百恵主演のビデオが楽しめます。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

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