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花脊と雲ヶ畑

たなきんです。いつもの2倍はあるかなりの長文です。

本文作成の7月31日は祇園祭の最終日です。山鉾巡行に参集された皆様、参集されなかった方々、如何お過ごしのことでしょうか。私は幸いにも今年は前後二回の山鉾巡行を見物し、北山ユースで知り合ったホステラーの懐かしい顔にまみえ、更に北山での出会いがきっかけで結婚されたご夫婦三組の縁が結ばれた実話などを伺い、呼べど再び帰らない青春時代を振り返ったのでありました。

毎度耳タコの話で恐縮ですが、私は北山ユースホステル開所2周年記念の金文字が箔押しされた平凡社版京都ポケット地図「京都」に記載された寺社仏閣公園墳墓御陵を約40年かけて全数踏破しております。しかし、この地図の編集の都合上、結構有名なのに抜けている場所もあり、南側は御香宮神社がなく、東側は狸谷山不動院が抜けています。まあ「京都」をどう定義するかで色々と変わってしまいますが、調べてみると周辺地区でどうしても訪れたい地域がいくつか残っています。そしてその一つが花脊と雲ヶ畑なのです。

花脊地区には山伏が修行する大悲山峰定寺があり、その宿坊が発展して美食家のメッカとなった美山荘があります。さらに、京都の町家の台所には愛宕神社の「火廼要慎(ひのようじん)」の御札がよく見うけられますが、この愛宕信仰の行事として花脊地域には「松上げ」の行事があります。この松上げは20mくらいの高さの柱の上に大傘と呼ばれる松明の籠を載せておいて、そこに運動会の玉入れ競争よろしく火種を投げ込み。着火したらその柱を倒すという行事です。運動会の玉は手で投げ入れますが、流石に火の付いた球を素手でつかむことはできません。そこで、火玉に縄を付けてその縄を振り回して投げ入れるという難しいワザが要求され、なかなか火が付かないのであります。

花脊の松上げ動画

西暦2000年になる正月というか大晦日にミレ二アム記念ということで、京都市役所前の広場で出張松上げが開催されて、それを私は見物したことがありますが、火の玉が四方八方から投げ入れられ、なかなか着火しないもどかしさと、着火の瞬間の煌めきは忘れることはできません。(連れて行った娘はすっかりその現場の記憶を失っておりました。)しかし、御池通に面した都会の風景の中では、いくら夜中とはいえ少し興醒めの感がありましたので現地に赴いてみたかったのであります。

いよいよ当日の報告であります。

いつもの京都駅南口のトヨタレンタカーでヴィッツを借りました。まずは広河原を目指します。すでに40,000キロ以上走ったヴィッツのドライブナビは非常に優秀で難なく行くことができました。以前に対馬と壱岐で借りたレンタカーのナビがお粗末だったのでそこではやむなく持参のiPhoneを頼りました。今回はiPhoneの取り付けアタッチメントまで持ち込んだのですが無駄になりました。
八条口から河原町通、塩小路通、鴨川を渡り、川端通を移動しナビに従って走ると、いつの間にか鞍馬へつながる鉄道と並行して北上し、貴船駅の横を通り、鞍馬寺の山門の前を通過していました。鞍馬は山菜などの佃煮が有名なので辻井という店に入り、実山椒、木の芽煮、山椒じゃこの三点を求め、ついでに自宅で試みてうまくいかなかった山椒の実の扱いを伝授して貰いました。なお、その秘訣はここには書かないことにします。

蛇足ですが、横浜高島屋の地下にある全国名店コーナーには、はれまのちりめん山椒、原了郭の黒七味、雲月の小松こんぶに混じって鞍馬辻井の実山椒、木の芽煮など五種類の品々が並んでおりますので、恐らく各地の高島屋百貨店の地下で辻井の山の幸を求めることが出来ると思います。また、木の芽煮は白いご飯に載せるより、おむすびに入れると格段に美味しく感じます。是非、お近くの高島屋でお求めください。

閑話休題、拙文をお読み頂いている皆様なら鞍馬山に登ったことはあるでしょうし、火祭りもご覧になった筈です。鞍馬の村は一本の坂道を挟んだ両側に家が並び、その家々の西側は鞍馬山、東側は鞍馬川という構造で、北上して町並みが途切れる辺りに鞍馬温泉があります。火祭りまでの時間潰しには持って来いの場所なのですが、武漢からもたらされた疫病の影響で営業はされておりませんでした。

鞍馬の村を抜けて坂の上にある鞍馬温泉を過ぎると人家は途絶え、対向車が来るとどちらかが広い場所までバックするくらいの狭い道になります。鬱蒼と繁った杉林が日光を遮り、暗いのでヘッドライトが自動点灯するのです。大昔にこの道をバスに揺られて通った記憶がありますが、さすがに今回の道は全て舗装されていて、路肩や道の山側の土留めもきれいになっていました。途中で対向二車線に広がる区間がときどき現れてはすぐにすれ違いもできない狭隘な道に変化します。考えてみますに予算の限りがあって数十年の計画を作り、毎年数メートルずつ拡幅整備されてきたのであろうと思われます。
それでも流石に日光のいろは坂のような峠越えの山道は拡幅は困難とみえて、花背トンネル実現化推進の大きな看板を見かけました。しかし、青の洞門のように少しずつトンネルを穿つわけにもいかず、単年度か連続した複数年度で大きな予算がトンネル工事には必要になりますので、峠の向こうの人口の少なさを考えるとトンネル工事に予算をつけるのは難しいのでないだろうかと思いました。

思うに、観光客の落とすお金が見込める小田原から箱根までのルートは、旧東海道、駅伝が走るバス道、有料のターンパイク、登山鉄道、ケーブルカーとロープウエイなど明治時代から投資がなされてきましたが、比較して観光資源に乏しい山村に続く道や交通機関の整備はそれなりにしかできないのでありましょう。

最初の目的地である花背と広河原の松上げ広場はとても遠く、一本しかない道でありながら心細くなりました。途中で左京区花背出張所の前を通ると役所の方が道で世間話をしていたので、その彼を捕まえて道案内して貰いました。5分走ると花背の広場で、さらに15分走ると広河原ということでした。私は松上げは広河原しか知りませんでしたが、後に調べて見ると10カ所以上で行われていることを知りました。
祭りの広場は大きく蛇行した川のカーブの内側にできた空き地で、祭りまでまだ一ヶ月以上あるその場所は間が抜けたような静けさで、灯火の太い木柱が横倒しになっているだけですから、祭りを知らない者から見れば五月の鯉のぼりの支柱と土台にしか思えません。
山村の谷川が作る広場は年に一夜の祭りのために空き地となっているのです。食物の不足がちな山村に少しでも平らな広い土地があれば畑か田んぼにするのが当然ですが、それを敢えて祭場にするのは、愛宕山信仰の重さがあるのでしょうか。

次は美山荘です。駐車場の車の台数から本日も満員であることが偲ばれます。遡ること12世紀に開創された大悲山峰定寺には現在でも毎年数十人の山伏が集合してお焚き上げ(護摩供)をする日があり、その宿坊が発展して摘み草料理を出すようになった美山荘はグルメのメッカともなっています。今回は美山荘での食事を諦め、その横に暖簾のかかった「そば・うどん」と表示のある門前食堂に入ることにしました。しかし、扉を開けると開店休業中でがらんとしており、寂しく駐車場に停めた車の中でコンビニのお握りを食べたのでした。まあ、こういうこともあろうかとお握りを買っておいてよかったと思いました。

なお、美山荘の料理を手伝っていた弟さんが銀閣寺参道に面した場所で「草喰なかひがし」というこれも人気の料理店を営んでおり、私は昼も夜もそこで何回か食べているので、いつかは美山荘で食事したいと念じております。なお、お値段もさることながら、狭い山道をもう一度運転してここまで来るのかと思うと、二の足を踏んでしまうのでありますけど。

さて、美山荘のよく手入れされた敷地を抜けて大悲山峰定寺に向かうと「都合により当面閉門します」の表示があって鉄の門が閉まっていて中に入れず引き返しました。しかし、鉄柵の間に望遠レンズを差し込んで大きな本堂を撮影できたのは幸いでした。一応、これで峰定寺へ行ってきたことにしたのです。

なお、私は京都の寺社仏閣完全踏破などと自慢しておりますが、拝観拒絶の寺もございます。その場合は門の扉にタッチして行ったことにしておりますので、ご笑諾ください。また、八瀬の瑠璃光院は何度もその前を歩いたことがありますが、入場料があまりにも高いので門を潜っていないことをここに告白致します。入場料の2,000円があれば、たかばしの新福菜館で中華そばを三杯食べた方がましと思うのです。ついでに瓢亭の朝がゆ(6,000円)、十二段家のお茶漬け(1,130円〜3,000円)も私の強固なる経済ポリシーで食べないことにしております。また、円山公園の芋棒(2,640円〜5,500円)も同じ理由で食べておりません。

話は大いに脱線しましたが、花脊を後にして志明院に向かいます。鴨川の源流があると言われ、宮崎俊監督は司馬遼太郎との対談でこの寺を知り、映画「もののけ姫」の着想を得たとも言われております。そしてここも山伏が4月29日に集合して護摩供を行い、残り火の上を裸足で渡るという行事が行われます。花脊に至る道を山深いと描写しましたが、志明院に至る道はさらに薄暗く、陰々滅々な雰囲気であります。

無料の駐車場は意外に広く、寺務所に向かう階段の上がり口に来ると山門より奥は撮影禁止、バッグや手提げの類いも車に置いていけという注意書きがあります。その急な階段を昇りきると、昔の社員食堂にあるような銀色のトレイが置いてあって拝観料として400円入れるようにとの説明書きがあります。由緒書きのあるパンフレットや拝観券などはありませんが、寺務所から相当なご高齢ながら眼光鋭い老婆が出てきて説明をしてくださいます。詳細はネットで調べて頂くとして、二階建ての大きな寺務所は大正七年の築だそうで、私の生家も大正十三年築なのでなにやら構造や建具に共通点があって寺社巡りには関係のないことですが、じろじろと見入ってしまったのであります。

老婆の説明で気になったのは、大きな宗派に属せず完全独立インデペンデント系なので、どこからも資金の援助がないそうで、そのためか山門の向こうに林立する堂宇も山の湿気もあるのか、今にも崩れそうなものが多いように感じられました。寺務所に住まう老婆とその旦那がどうにかなると、この寺の存続はどうなってしまうのか案じてしまったのであります。

さて、山門を潜り文字通り山道のような急な坂を登っていくと、急な山肌に小さなお堂がへばりつくように点在しており、一番上まで上がると清水寺のような舞台があるらしいが、苔むした急な階段が危ないので断念しました。ここまで来て引き返すのは実に残念ですが、コンビニおにぎり一個ではエネルギーが切れてしまいました。

次の目的地は愛宕念仏寺です。愛宕を「あたご」と読んでいたのですが、この日になって「おたぎ」と読むことを知りました。志明院からは「持越峠」という意味深長な山道を抜けます。この峠の東側の川は御所のある鴨川に通じ、西側は桂川に流れていきます。雲ヶ畑で死者が出た時に、御所の方面にケガレがあってはならないということで、死体を峠を持ち越えて東側の村で葬儀したという習わしがあったことから名前がついたそうであります。

さて、愛宕念仏寺はかつて六道珍皇寺の門前の坂を少し下った場所にあったのですが、大正年間に嵯峨の奥に移転したのであります。7月16日に六道珍皇寺へお参りした後に愛宕念仏寺がここに在ったという石碑を探したのですが、見つからず交番に飛び込むと巡査がわざわざ道に出てきて現地まで案内してくださった。石碑は交番から数メートルの場所にあったのですが、立て看板の陰になっており見つからなかった訳が分かりました。

念仏寺を後にして最終目的地は、嵯峨鳥居本の平野屋です。鮎茶漬けで有名な店なのですが、ここもお値段が私の経済方針と相容れません。入店して値段を聞いて速攻で出てきてしまった苦い過去がございます。それでも今回は京都の北の山村巡りのフィナーレという理屈を付けて清水の舞台から飛び降りたのでございます。

平野屋の感想など

 

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

6件のコメント

  1. 平野屋で食べたことはありますが、鮎料理ではなく「志んこ」です。
    1987年ですので、いくらだったか忘れましたが(鮎に比べれば安かった)平野屋に行ったという満足感(?)は得られます。
    私の様な者は平野屋で鮎料理は不似合いです。
    https://kitayamayh.org/main/discussion-topics/099-撮影87年/

     

    平野屋Webサイト(sslサイトではないので保護されていないと表示されます)
    http://ayuchaya-hiranoya.com/shinko/#c1

    ※リンクは別Tab(Window)で開きます。

  2. 花背の松上げミレニアム記念の時に観ました。花背は一軒だけ喫茶店があり京都のk氏と珈琲を飲みに行った思い出があります

     

     

  3. Nekoさんの写真は、青春ど真ん中の感じで素敵ですね。あの頃に戻りたい。
    鮎茶漬けのお値段は2,000円くらいでした。

  4. Nekoさんの写真は、青春ど真ん中の感じで素敵ですね。あの頃に戻りたい。

    私はシャッターをそしていたので写っていませんが、「焼肉 弘商店 四条高倉」に行ったメンバーが1人、背後霊のように・・・若い!

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