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醍醐寺三宝院

たなきんです。いつものように長文です。

歴史や地理にとんと興味のなかった私が京都に脳をやられてしまった最初の瞬間は今も忘れることはできません。大阪万博の前年のことです。

高校の修学旅行の数日間は数人の班行動が許されていて、参拝する寺社仏閣やルートなどは自分たちで自由に選ぶことができました。その方面に興味のない私は地歴部の友人に全ての計画作りを任せ、その友人の背中を眺めつつ馬鹿話をしながら最初に向かったのは山科の醍醐寺でありました。1997年に開通した地下鉄東西線はまだ計画段階であり、三条通富小路の日昇別荘から現地への移動に国鉄を使ったか、または京阪三条から路面電車を使った筈なのですが、全くルートを覚えていないのだから本当に恥ずかしい限りです。さて、醍醐寺の山門を潜るとすぐ左に三宝院がありますが、そこは後回しにしてまずは境内を突っ切り、裏山の頂上にある上醍醐を目指したのでした。ちょうど、山道に差し掛かる時にはまだ朝もやが残っており、目の前に屹立していたのは森の緑の背景の中に浮かび上がる丹塗りの五重の塔であった。その丹色が真新しく、高校生の私の眼にはあたかも「新築」の塔に見えたのであります。恐らく天歴5年(西暦951年)の完成から数え切れないほどの改修や塗り直しをしているのですが、この時も何度目かの修復を終えたばかりであったのでしょう。日本三大五重の塔のうち、そのデザインの良さからナンバーワンとも言われ、かのフランスの哲学者サルトルがこの塔を前に言葉が出なかったという逸話がありますので、私もサルトルと同じく無言で対峙したのでありました。

醍醐寺は山の麓の下醍醐と裏山の尾根にある上醍醐に分かれていて、上醍醐は一時間ほど山道を登って辿り着く醍醐寺開創の地であり、その山の頂上には、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿(国宝)など、数々の堂宇が軒を並べています。残念ながら平成二十年八月二十四日未明 落雷が原因と思われる火事により上醍醐准胝観音堂は全焼し再建されていません。思い返すと、修学旅行の時は消失する前の観音堂を拝んでいる筈なのですが、その記憶どころか上醍醐の記憶が全くないのはまことに残念です。何はともあれ、本論は下山してから始まります。

一汗かいた後に、いよいよ国宝の醍醐寺三宝院への入場です。ここだけは特別に三百円(当時)取られたのでさぞかし立派なモノが拝見できるかという期待が満々でした。まあ太閤秀吉公が自ら設計をしたということが、この寺の第八十代座主の日記「義演准后日誌」に記されているそうです。門を潜ると右に折れて、庭と建物が長細くできていて、泉殿、表書院、純浄観、護摩堂(本堂)と渡り廊下で羊腸のごとく連結されております。池の向こう側、白の漆喰塀との間には鬱蒼とした樹木が茂り深山幽谷の風情を感じさせ、十七歳の若輩修学旅行生も感じ入ったのであります。

この建物は秀吉公の創建以来、約四百年間そのまま維持されてきたとのお話を伺っていたのですが、妙に新しい部分が目に付きました。表書院は前面に濡れ縁というか板敷の廊下を持ち、その縁には転落防止のための低い手摺りがついております。そしてその手摺りが白木で、さっきまでトクサで磨いていたようなすべすべの木肌を持っており、数百年の歳月を経たようには見えませんでした。純真無垢な高校生でも風雨にされられている木製の手摺りは朽ちてしまうので定期的な交換が必要なのだろうと推察することはできましたが、本当に交換しているのは手摺りだけなのかという疑問符が心中に充満してきて、落ち着いて名庭を愛でるわけにはいかなくなりました。

それから幾星霜、月は満ち欠け、星は北辰を中心にグルグル廻り、昭和は平成に、そして令和元年になった今年、ある資料を読み驚くべき事実が分かったのであります。それは、私が観た昭和の三宝院の庭は築庭当時の風情とは違っていたので、平成年間も末になって秀吉時代の設計に準じて改庭(造語です)されたとのことであります。

ことの発端は、あの平成七年(1995年)阪神淡路大震災で三宝院のお庭の大きな岩が傾いたことがきっかけだとのこと。前述した第八十代座主の日記を改めて読み直すと庭の背景となる樹木はそれほど鬱蒼と茂っておらず、塀の向こう側の醍醐寺の仁王門(表門)が望めたということでその樹木をトリミングしたそうであります。また、泉殿の池を挟んだ向こう側に丸いこんもりした築山があったのですが、調査したところそこへ登る石の階段が発見され、上がったところに大きな横長の石が出てきた。よく考えてみるに、こんもりした山ではなくて頂上は台形のように平たくなっていて、ベンチとしての横長石があって、観月台として使われていたようなのであります。そこで、横長の石も露出させて当時の姿に復元したとのことであります。

醍醐寺の五重の塔の丹塗り、三宝院表書院の手摺り、三宝院のお庭、どこれもこれも諸行無常、盛者必衰、会者定離、万物流転、だいせんじがけだらなよさ、と思うのであります。読者諸兄の皆様、醍醐寺の三宝院は昔に行ったことあるなあと遠い目をせずに、千里に灸を据えて是非是非もう一度拝観料を払って入山されることをお勧めします。

以下、老婆心ながら、拝観券(三宝院・霊宝館・伽藍)の料金は繁忙期は大人1500円、閑散期は800円であります。また、上醍醐への入山は平成三十一年四月六日から解禁となり、季節を問わず大人600円となっております。

参考:

醍醐寺  https://www.daigoji.or.jp

日昇別荘 https://www.ikyu.com/00000333/?ikyh=p__s_accnm&ikCo=ik000407

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

1件のコメント

  1. 文中の「だいせんじがけだらなよさ」は、寺山修司の作詞でカルメン・マキが歌った歌です。

    実は、唐の詩人于武陵の五言絶句の詩「勧酒」の「花発多風雨 人生足別離」に、井伏鱒二が「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」というふうに訳をつけ、これを寺山修司が歌にしたものです。「だいせんじがけだらなよさ」を逆さに読むと分かります。

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