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なぜにあなたは京都へ行くの

1971年に当時は五人組だった「チェリッシュ」が歌った曲「なぜにあなたは京都に行くの」をしばらくぶりに聴いた。この北山サイトの熱心な読者であれば私が京都を半世紀近くも掛けて徘徊している理由はご存知だろう。

京都を訪れる理由は人それぞれにあるだろうが、私は以前に「京都・イタリア説」を唱えたことがある。読者諸兄の生まれ育った家には、畳敷の部屋に襖や障子、欄間に蚊帳の吊り輪、違い棚に床の間があったか、またはそういう家が多かっただろう。しかし、最近の新聞のチラシにあるマンション間取り図には畳敷の部屋はない。

和風建築を知らない今の青年や中年にとって、京都の寺社仏閣の建物や庭園はイタリアと同じ異境の眺めなのである。当然ながら京町家の表から裏口まで続く土間(通り庭)やおくどさん、坪庭、蔵などというのは知識として頭に入っているだけでも偉いものである。

逆に言えば、恐らく還暦過ぎの年齢であろう読者の皆さんは恵まれている。つまり、足利義政が作った四畳半の畳敷の部屋を、子供の時代から実体験しているので京都の感じ方に深みがある。銀閣寺の東求堂の座敷や縁側を観てしっくりくるのである。

さて、私が通った中学校は東京23区内とはいえ裏手と正門前が畑で、風向きによっては肥(コエ)の香りが漂ってきたし、K先輩は肥溜に落ちて有名になった。高校も京王帝都電鉄浜田山駅に続く道の両側は畑であった。昭和のオリンピックの頃は、まだ人糞が肥料になっていた時代であったのだ。

京都に話を移そう。鴨川と並行して流れる高瀬川は物資流通のための運河であり、その運河を通行する船の港として「船入」が十指に余るほど作られたが、今は「一之船入」だけが残っている。その船入に面して蔵が並んでいたそうであるが、今は全く影もない。大阪方面から上がってくる物資の運搬しか頭に描いていなかったのであるが、下る荷物もあってそれが人糞だと最近知った。

京町家の特徴の一つに表から裏まで土間が突き抜けていて、裏の坪庭まで夏の暑い季節に風を通す工夫だという説明を真に受けていたが、風を通すのに土間である必要はない。なんてことはない。裏庭の奥にある便所から汲み出す肥樽を担いで通すための通路でもあったのである。よければ「肥担ぎ」をググってみられたい。

平安京ができて間もない頃からかなりの間は、欧州と同じく一般大衆の糞尿排泄は道端でしていた。10世紀に書かれた落窪物語には貴人の行列に控えおろうと叱られて、しゃがんだら屎の山の上だったという描写がある。これでは疫病が流行るのは当然であり、祇園祭のはじまりは疫病退散の祈りという説もある。その路上のブツをなんとかする職業の人々もいて、京都のブラクキャベツの源となっていくのである。(諸説あります)

ところで京都の修学旅行の聖地は金閣でも清水寺でもなく、新京極である。土産物を買うだけでなく、よその地方の高校生とエールの交換やら、ガンの飛ばし合いをしたり、物理的にコンタクトする場合もあったと聞く。その新京極が三条通に突き当たる右側には「さくら井屋」という版画やちょっと高級な絵葉書を売る店があって、1840年創業の老舗だったが職人引退により平成23年1月15日に廃業してしまった。そして新京極の通りを挟んだ向かいには秋になると松茸を売る店があったが、これもいつの間にか店を畳んでしまった。

その松茸の話である。松茸は赤松の林でのみ育つ。そしてアカマツは根元に下草や茂みがある場所では育たない。つまり、爺さんが柴刈りに行き山がスカスカにならないとアカマツは育たず、松茸も生えないのである。その柴は街に出て来て売ると現金収入となる。昭和三十年代のガイドブックには頭に束ねた柴か炭を載せた姉さん被りの大原女の写真があったことを記憶している。そしてアカマツは良い炭の原料になり、大原は炭の産地として有名であった。

なお、米に米俵があるように、炭には炭俵というものがある。ご覧になりたいのであれば今宮神社横のあぶり餅の店に行くと良い。店先に並んでいることがある。米の俵は藁(わら)でできているが、炭の俵は柴(細い枝木)で出来ている。

振り返ってみるに、我々の世代は幸せである。薪を燃やして沸かした風呂、炭を焚べる火鉢や炬燵、畳敷の座敷、玄関のたたき、土壁などなど、京都の寺社仏閣の建物や調度品を実体験を基にして感じることのできる最後の世代なのである。

私が京都に行く理由の一つに、自分の育ってきたちょっと前の日本に戻ることができるということもあるのかも知れない。

おまけ:「なぜにあなたは京都へ行くの」

https://www.youtube.com/watch?v=0KJnk7ab3FM

おまけ その2:「古いお寺にただひとり」

https://www.youtube.com/watch?v=p1EU51amYzY&list=RDWhe0zP4Yzlw&index=8

おまけ その3:「京都の恋」・・・流れる京都の景色が懐かしい

https://www.youtube.com/watch?v=Ckz0MWo7UFs

おまけ その4:「京のにわか雨」・・・出てくる場面の寺社の名前を当てられたら凄い。コメント欄に正解をお寄せ頂きたい。

https://www.youtube.com/watch?v=k_cg04nVBPg&list=RDzekvNWZlStM&index=11

おまけ その5:「女ひとり」・・・京都大原三千院です。

https://www.youtube.com/watch?v=iNlusRgSqC0

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

2件のコメント

  1. 「船入」についての追加情報です。

    河原町通り東側の「ファミリーマート四条河原町店」の北側の通りの名前が「八之舟入通」です。「一之舟入」から約800メートルの場所ですから、当時の舟入は110メートル間隔であったことが分かりました。この距離は御池と四条通りの距離と同じです。

    また、御池と四条通りの間の東西に走る道、姉小路通、六角通、蛸薬師通の三本が寺町通或いは河原町通を境に折れ曲がっていて一直線になっていないことにも気が付きました。寺町通りの東側は太閤秀吉によっていくつものお寺が移転して来たので、上記の三本の通りも移動せざるを得なかったのでしょうか。

    ちなみに、姉小路通は、鳩居堂の角の三条通りで南進してそのまま高瀬川まで直線。六角通はGoogleの地図によると寺町通の東に行くと二本!に別れて、南側の六角通は新京極通で無くなり、北側の道は河原町通に突き当たってしまい、河原町通を20メートルほど南下すると新たに六角通が始まります。蛸薬師通は寺町通で南下、河原町通で北上して木屋町通りに至ります。

    アネサンロッカクタコニシキなんて記憶しておりますが、こんな道にも文字通りの紆余曲折があったのです。

  2. 高瀬川についての追加情報です。

    嵐電の嵐山駅を出て、渡月橋を渡ったところで保津川沿いの小道を上流に向かって歩くと、急な坂を登った山の斜面に張り付くように大悲閣千光寺という寺がある。私は駅で借りた電動アシスト自転車のレンタル時間が余ったので行くことが出来たが、普通の観光客は足を伸ばすことのない場所である。そこには角倉了以の像が祀られている。

    彼は安南などとの貿易で財をなし、嵐山の大堰川に加えて高瀬川も開削したという。その高瀬川は彼の貿易品を運搬するために掘られた。木屋町に巨大な倉庫があったという。幕府の支援を受けず自分の財力だけで川を引くとは驚きである。

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