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京都大原散々記

大原バス停から三千院に向かう坂道からの眺め 三千院に向かう石段ですが、ここに御陵への参道の案内石碑があります。

 高倉天皇皇后徳子 大原西陵の案内板

大原西陵の上からの眺め、右は寂光院の建物 御蔭神社参道の車道はここまで

御蔭神社へ至るハイキングコース 御蔭神社の最初の鳥居。ここから社殿は見えない

 修学院駅近くの「らぁ麺すぐル」 一乗寺の昔からある「高安」。一度移転しています。
写真にマウスを合わせると説明が出ます


 読者の皆様、コロナ禍とはいえご健勝のことと存じます。小生は命に全く関わりのない部分の手術を2月に受け、その手術痕の引き攣れが残り、またしばらく寝ていたので一日に五千歩を超えると辛い状況でしたが、ライフワークの「京都の寺社仏閣名所旧跡御陵庭園」の全数踏破を目指して上洛致しましたのでご報告致します。なお、京都府がマンボウになる寸前に帰宅しましたので、国策に反した行動をとったという謗りは受けないと信じております。

 まず、しばらく大原へ足をお運びになっていないお友達に説明しますと、三千院はその西側の土地を大きく開拓して、「金色不動堂」や「和心堂」を建立し、さらに回遊式の「紫陽花苑」を作り、平成十八年には往生極楽院の燈明の煤で汚れた天井を、創建当時の姿に再現した円融蔵を作るなど大幅に充実拡張されております。
また、寂光院は平成十二年に放火で全焼しましたが、今は丹塗りのピカピカのお堂が建てられ、周囲の伽藍も充実して平家の隆盛期を思い起こさせるお姿となっております。
以上の話を知らなかったと驚かれた方は、もう一度大原へ足を運ぶ計画を立てるか、GoogleMapの衛星写真で確認されることをお勧めします。

 さて、桜のベストシーズンを狙ったのですが、地球温暖化の影響か満開時期は平年より10日も早くなってしまいました。早朝に大原のバスセンターまで行き、そこからの歩行は辛いので、ネットでタクシーを呼んで移動する心算でしたが、iPhoneのタクシー呼び出しアプリの画面には「付近にタクシーは見当たりませんでした。」の表示が出るばかりなのです。冷静に考えてみれば、大原には鯖街道が一本通るだけで、季節を外した観光地に流しのタクシーが走っているわけがありません。

 しばし呼び出しアプリに専念していたのですが、同行者が脚をつったこともあり意を決して三千院方面の登り坂を歩み始めたのです。なんと彼の言によると、歩かずに立ったままだと足がつるというのです。歩いた方が楽だという言葉を信じ、彼の健康をおもんばかって歩き始めると、途中に視界が広がる場所があり、新緑の山々のそこここに残る桜のピンクのぼかし模様が入る景色は見事でしたが、洛北とはいえ大原の桜も枝垂れ桜が半分残るくらいで朝早くの三千院や寂光院には観光客は見当たらず、両寺院の前の茶店は全て閉じたままでした。

 三千院の門前を過ぎ、律川の朱塗りの欄干が光る石橋を渡ると右側に目的地が見えて参ります。そこが、「後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵」であります。後鳥羽天皇が即位した年齢は4歳、しかも源平の争いの中で彼と別の天皇が既に即位しており、そして三種の神器は平家側の天皇が持っていたので、無印で両手ぶらりの天皇様だったのであります。その後に様々な騒動をやらかしますが、上皇になった時に「承久の乱」を起こします。しかし、鎌倉幕府に宇治川の戦いで負けて隠岐の島に流されて崩御されてしまいます。また、順徳天皇も討幕派だったので佐渡へ流されてしまい、そこでお亡くなりになります。

 これらは十三世紀前半の出来事ですが、鎌倉幕府に逆らった二人の亡骸が佐渡や隠岐の島から運ばれてくる筈がありません。京都の御陵の半数以上を参拝した私の調査によれば、御陵は幕末の尊王攘夷思想の高揚とともに調査が始まり、江戸から明治にかけて「治定」されているようです。またこの「治定」も見直しがあって興味深く、骨や髪歯、遺品もなしにお墓というのはおかしいと訝しがるのは当然ですが、宮内庁の説明によると御陵は「祭祀を行う場所」であり、何が埋まってようと何も埋まっていなくても「御陵」になり得るらしいのです。

 特に、後鳥羽天皇は崩御される前に、「怨霊になってタタってやるぞ」と書き残していて、その後の天皇が連続して若死にしたことから恐れられていたとのことであります。なんだか北野天満宮の由来と同じ匂いを感じるのは私だけではありますまい。つまりは、きちんと祀らないとタタるのでお墓を作ったのではないかという説もあるのでございます。

 もう、後鳥羽と順徳の両天皇の御陵から大原のバスセンターに戻って来ただけでヘトヘトになりました。そこで、またタクシーの呼び出しをしますが、虚しく時は過ぎゆくだけなので、仕方なく寂光院に続く1.2キロの細い山道をとぼとぼと歩き出します。春のうららかな陽射し、風が爽やかで菜の花畑もあり、山の麓には農家の屋根が望めますが、手術痕が痛みます。途中にベンチなどなく、寂光院手前の休憩所は全て閉店ガラガラで休憩もできません。一度だけタクシーが追い抜いて行きましたが、その客は寂光院でそれを待たせて帰途も使うに違いありません。

 それはさておき、我々が目指すは寂光院にあらず、テキは「高倉天皇皇后徳子 大原西陵」であります。壇ノ浦の合戦で敗れた平家とともに入水自殺を試みますが、長い髪を捕まれ果たせず、京へ戻され大原で生涯を閉じた悲運の女性であります。諸説ありますが柴漬けの名付け親とも言われております。ちなみに、ニシダヤの「おらがむら漬」も包装に「しば漬風味」と印刷されているのに最近になって気がつきました。

 さて、山の中腹にある御陵の入り口まで一直線の階段は、ヘトヘトの我々に最後の試練を与えますが、参上した証拠の写真を撮り、危ない足取りで下りの階段をなんとか下まで降りると、営業していない茶店の中で先ほどのタクシーの運転手さんと店のおばさんが石油ストーブに当たりながら歓談中です。よろよろと店に入り、閉店中にも拘らずビールを注文してから、運転手さんにタクシーの手配をお願いしました。
寂光院から大原のバスセンターまでの短距離だと難しい。せめて叡電の八瀬駅か出町柳くらいなら迎車できるとの助言に従い、運転手さんが暗唱する電話番号をiPhoneに打ち込みタクシーを呼んだのであります。

 なお、大原では三千院、宝泉院、勝林院、実光院、さらには来迎院とそこから遡って音無の滝まで足跡を既に残しております。また、寂光院も焼ける前の風情のある姿と再建後のしっくりこない新築の建物も眺めております。ということで今回は寺社仏閣は全くお参りせず、三基の御陵を見物して帰路のタクシーにヘトヘトの身体を乗せたのであります。

 以下は大原の話ではございませんが、こういう話が嫌いではない方はどうぞ、ご覧ください。
帰りのタクシーの中で運転手さんと四方山話をしていると、八瀬駅近くに私の未踏の場所が3カ所ある。それならついでに回ったらどうかと提案されました。さすがに昭和51年発行のガイドブックにはあった「八瀬遊園」は廃園となり会員制宿泊施設の「エクシブ八瀬」になっていますが、御蔭みかげ神社と崇道すどう神社は坂の途中まで車で行けるというのです。

 まずは、御蔭神社です。この神社は下鴨神社のルーツと言われ、知る人ぞ知るお社ですが、同行の某氏も初めて来たというくらいの遠隔地のオヤシロでございます。そして車は街道から左に折れて高野川を渡り、八瀬比叡山口の駅前を過ぎ、瑠璃光院の前を通り、車止めのある場所まで進みます。タクシーはバックしないと元の道に戻れませんので、「方向転換しておきます。神社はすぐそこです。」との言葉に騙されました。車から降りると杉木立に囲まれた昼なお暗いハイキングコースで、しかも登り坂で赤い鳥居が見えても先が長く、さらに進むと社殿ではるか左上に見えてきます。最後は石段を昇って拝殿することになるのです。なんとこの時は東山三十六峰の第二の山だとは知るよしもありません。5月になるとここで御蔭祭が行われ、荒魂神を下鴨神社にお迎えすることで葵祭が始まるとのこと。

 残りの崇道神社は早良親王さわらしんのうを祀っていますが、これも怨霊タタリ説があって早良親王は亡くなってから「崇道天皇」の名を授けられたとのこと。実はタタリは相当恐ろしかったらしく、朝廷の命で全国に同名の神社が建立され、現在でも茨城から広島まで二十を超える神社が残っているようであります。まあ、私は由来因縁故事来歴には頓着せず、ガイドブックの索引にある場所を単純に巡るだけなのですが、後付けで知識を得るとなかなか興味深い話があって面白いものであります。

 崇道神社で本日の目的は完了したのですが、タクシーの運転手さんは私の体調を気にかけて下さって、次はどこに参りましょうかと尋ねるので、「一乗寺のラーメン街道」と即答してその街道の北限にある「らぁ麺すぐる」の店頭で下ろしてもらったのであります。この後、叡電で一駅間移動して一乗寺駅で下車、「高安」でもう一杯頂き、本日の目的は達成したのであります。はい、一万五千歩を超えました。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

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