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臨川寺特別拝観

たなきんです。いつもより短い投稿です。

嵐山臨川寺は天龍寺の塔頭のひとつで、本来ならば天龍寺の境内にあるべき開山堂がここの本堂となっている。これは天龍寺の堂宇が応仁の乱や維新戦争などの為に幾度となく火災焼失し、そのため少し離れた場所にあって被災の回数の少なかった臨川寺を開山堂としたとのことである。興味深いことにどちらも臨済宗の寺であるが、蛤御門の変では長州藩が天龍寺に陣を構え、薩摩側は相国寺に陣を張ったそうである。なお、説明不要かと思うが、開山堂はその寺院の初代僧侶の像を祀る堂であり、臨川寺の場合は無窓国師が開山であり、その墓は開山堂の床下にあり、参拝や撮影も許されている。

私事ながら、京都の寺社巡りの前は鎌倉の寺社巡りをしており、鎌倉五山建長寺の庭園、同じく五山第四位である浄智寺の庭も無窓国師の作である。鎌倉巡りしていた当時はいささか麻雀を嗜んでおり、無窓国師が「国士無双」を連想させるのでその名前が妙に記憶に刻まれていたのである。さらに蛇足だが、無窓国師は無窓疎石とも呼ばれることがある。

さて、臨川寺は嵐山渡月橋の第一番の撮影ポイント、つまり橋の下流北岸から松の木陰越しにモンキーパークのある嵐山を背景に眺める場所に入口がある。入口に佇んでいると修学旅行の集合写真のシャッターを切る掛け声が聞こえてくるのが愉快である。そして入口から50mほどの長い参道を歩くと三門に出る。その三門の向こうに枯山水とその中央に三尊石を望むことができる。さて、長い参道と書いたが、その昔は参道の両側だけでなく寺の東側にある京福電鉄嵐山線を跨ぐ陸橋の先まで境内であったそうである。

つまりは、廃仏毀釈もあって寺勢が衰え、境内の土地は蚕食され戦後の昭和時代には境内で野球やチャンバラごっこができたくらい荒れていた時代があるのである。京都には妙に長い参道(その両側には茶店などなく住宅が櫛比している)を持つ寺院が散見されるが、それはそういう背景があるのである。

ここでいつものように話が大きく脱線するが、三十三間堂の千体観音像の周囲には剣を握った仏像もある。その仏像から剣を借りてチャンバラごっこをしていたという実在の人物から話を伺ったことがある。終戦直後の食うや食わずの時代に拝観料を期待できる観光客など来ず、相当に荒れていたに違いない。そしてこの寺もそういう時代を経て、ようやく数十年前に枯山水の庭を造り今に至るわけである。

さて、臨川寺は年に一日だけ特別公開される寺院である。今回はJR東海の企画で3500円。募集人数合計は90名、500円相当のお買い物券がついているので、実質の拝観料は3000円。これに天龍寺の拝観料と天龍寺法堂天井に描かれた加山又造作の雲龍図見学もついている。JR東海がどれだけのコミッションを取っているかは存じ上げないが、年に一度の拝観料総額は27万円となる。

拝観の当日はJR東海の関係者も二、三名おり、カラー印刷の三つ折りパンフも配られた。諸々を案じるに金銭的には難しい。そこで私はこう考えた、これはテストマーケティング(試験営業)ではないだろうかと。つまり、正式発売の前に地域や期間を限定して商品を販売して全国展開した際の販売台数を予測するのである。私の知識は昭和時代後期の古いものであるが、静岡や札幌が試験販売の対象に選ばれた。年齢構成や所得水準などが平均的な日本に近いからだそうである。

天龍寺に例を取ってみよう。天龍寺の拝観エリアは三カ所に分けられている。無窓国師作の庭、方丈、法堂であり、2023年春に全部巡ると大人の場合、500円+300円+500円の合計1300円である。私の個人的感想であるが1300円は非常に安い。しかし、これに臨川寺を加えるにはどうしたらよいのだろうか。場所は天龍寺から離れている。庭は昭和の作である。拝観すべきものは開山堂しかない。これも個人的感想であるが、京都に一回しか来ない普通の観光客にとってはあまり魅力はない寺と思われる。

そこで、ネットだけで拝観者を募集して様子見をしているのではないかと、私は穿った見方をしているのである。

タナキン

北山ユース開所366日目から宿泊して、皆さまに育てられた大昔のホステラーです。 京都の寺社仏閣の全数踏破を終え、次に季節毎の拝観を実施中。

1件のコメント

  1. 昭和の臭いがする臨川寺のパンフレット文章を少しだけ引用します。

    ++++++++以下 引用++++++++++++

    大堰川に臨んで、前方に嵐山を眺めることのできるこの寺は、霊亀山臨川禅寺と申し、後醍醐天皇が建武二年(1335年)の十月に夢窓国師を開山として創立されたところであります。

    元は亀山法皇の離宮「亀山殿」の一部で「川端殿」と呼ばれており、法皇の皇女で後醍醐天皇の叔母「昭慶門院」がここで御出家の後、後醍醐天皇の皇子世良(ときなが)親王を養育されたところであります。親王は女院の亡きあとは、北畠親房にかしずかれ、夢窓国師から膳の心を学ばれましたが、惜しくも若くして薨じ給い、ここに御墓所が営まれました。今も本堂の向かって右後に鎮まっています。

    ++++++++引用 終わり++++++++++

    これは絶対に明治の教育を受けた方の筆に違いないと思うのであります。

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